過去という“存在しない檻”に生きるということ
「過去に縛られている」
そう口にするとき、
あなたはすでに“ある前提”を呑み込んでいる。
それは、過去が存在しているという前提だ。
だが、存在しているのは「記憶」ではない。
存在しているのは「身体」である。
「解像度を上げる」とは、まさにこのことだ。
今この瞬間、
あなたが立っている床の硬さ、
胸郭の動き、
空気の重さ。
それが現実である。
それ以外は、
「構成された物語」
「編集された幻」
心理学的にも、
脳科学的にも、
記憶とは再構成である。
1回目の記憶と10回目の記憶は、
情報の配置が違う。
つまり、“過去”として語られるものは、
実際には「構築された現在の物語」なのだ。
それを、
あたかも“真実”として取り扱っている限り、
あなたの世界は“死者の情報”に支配されてしまう。
これは一種の情報憑依とさえ言える。
まるで過去という“亡霊”が、
今の身体に取り憑いて、
未来の動きを操っているかのように。
仏教哲学の極致ともいえる“阿毘達磨”では、
現象は「有為法」として
瞬間瞬間に生起・変化・滅尽するとされる。
そして「過去に属する法」は、
すでに滅しており、
実在しない。
あなたがしがみついている
「記憶」
「後悔」
「トラウマ」
「成功体験」は、
法の分類上、“無”である。
すでにないものにリアリティを感じるとは、
つまり“虚構に命を吹き込んでいる”にすぎない。
倶舎論では、
その虚構の根源を「想(saṃjñā)」に帰す。
すなわち、
意味づけの作用。
名前をつけ、
文脈を与え、
ラベル化し、
“自分の物語”にする。
でもその物語は、
誰かから与えられた構文でできている。
本当は「裏切られた」のではなく、
「そう解釈した」だけかもしれない。
本当は「失敗」ではなく、
「学習」だったかもしれない。
ラベルを捨てなければ、
あなたは“過去というテキストファイル”を、
延々と再生し続けることになる。
ギルバート・ライルが示した
「カテゴリー錯誤」とは、
異なる種類の存在論的位相を、
同じものとして扱ってしまう誤謬のこと。
たとえば「大学ってどの建物?」という問い。
大学は建物ではなく、
それらの体系的存在だ。
つまり、
誤った次元で問いを立てているということ。
同様に、
過去の記憶(情報)を、
現在の現象(現実)として扱ってしまうのは、
カテゴリー錯誤である。
それは
「空気を噛もうとして歯をくいしばっている」ようなもの。
何も咀嚼されないまま、
顎が疲弊していくだけ。
“今ここ”に生きるとは、
情報ではなく感覚に生きること。
なぜなら「過去」は、
身体感覚の中に位置しないからだ。
風の流れは感じられる。
鼓動は聞こえる。
でも「過去に裏切られた感情」は、
身体のどこにも“触れない”。
つまり、それは“ない”。
“いまここ”において、
本質的に“ない”ものを握りしめているのが、
「過去に縛られている」という状態の正体なのだ。
人間の脳は、
既知のものを好む。
過去とは、
「既知の地図」である。
たとえそれが苦しみに満ちていても、
「知っている痛み」のほうが、
「未知の自由」より安心するという生存戦略が働く。
つまり、
あなたが“過去に縛られている”のではなく、
あなたが“過去に縛られていたい”のかもしれない。
そこには、
“未知の変化”への恐れと、
“現在を生きる責任”の重さがある。
でもそれは、本当にあなたが望んでいるものだろうか?
今、
目を閉じて。
身体を感じてほしい。
温度、
重力、
重心、
皮膚の張り、
心拍のリズム。
それがあなたの“今”だ。
それ以外は、
情報の残響でしかない。
あなたは“過去”に生きていたのではなく、
“過去という幻覚”に、
現在を明け渡していただけなのだ。
あなたの足首に巻き付いていたと思っていた鎖は、
よく見ると、
最初からそこにはなかった。
鎖の感覚だけが、
あなたの脳に焼き付いていただけ。
今、この瞬間、
あなたは立ち上がれる。
歩ける。
ただし、
そのためには、
「私は過去に縛られている」という物語を、
手放す覚悟が必要だ。
あなたは誰かに傷つけられた被害者ではない。
あなたは、
過去の物語を持ち出して今を曇らせる“語り手”なのだ。
さあ、
終わらせよう。
“過去”という情報に支配された人生を。
そして、今ここに戻ってこよう。
呼吸がある場所に。
解像度のある身体に。
あなた自身が存在する、
たった一つの“現実”に。