私たちは、
ごく自然にこう思っている。
「私は、ここにいる」
「私は、自分の意思で考え、選び、行動している」
しかし、
その“当たり前”は、
本当に事実なのだろうか。
認知科学から考えると、
この問いに冷静で、
残酷な答えを突きつける。
「“自分”は、脳の中に実体として存在していない」
脳は“統合された自分”を知らない。
脳は、もともと
・感覚を処理する部位
・運動を制御する部位
・感情を生む部位
・言語を司る部位
それぞれが独立して働く
モジュールの集合体だ。
そこに「司令塔」や
「本体の自分」なんてものは存在しない。
にもかかわらず、
私たちは一人の自分として生きている感覚を持っている。
では、その感覚はどこから来るのか。
インタープリター(解釈装置)が
“自分”という存在をでっちあげるのだ。
特に左脳は、
起きた出来事や行動の理由を
後付けで説明する装置として働く。
・なぜその行動をしたのか
・なぜその感情が出たのか
・なぜ今、こう考えているのか
それらを、
一貫した物語としてまとめ上げる。
この“物語”こそが、
私たちが信じている「自分」だ。
つまり、
自分とは実体ではなく
説明の集合体である。
「自分がいるから、考えている」のではない。
考えが起きたあとに、
それを“自分の考え”だと
解釈しているだけなのだ。
感情が湧く。
身体が反応する。
行動が先に起きる。
そのあとで、
脳が言う。
「これは、私がやったことだ」
ここに
錯覚が生まれる。
「自分」は主体ではなく、
観測結果でしかない。
重要なのはここだ。
“自分”は
操縦席に座っている存在ではない。
むしろ、
後部座席で実況しているナレーターに近い。
にもかかわらず、
私たちはそのナレーションを
「本体」だと信じ込んでしまう。
だから苦しむ。
・思考を止められない
・感情に振り回される
・過去や未来に縛られる
すべては
錯覚を自分だと握りしめているからだ。
ここで大切なのは、
「自分は存在しない」と否定することではない。
そうではなく、
「自分とは、現象である」
と見抜くことだ。
思考は現れる。
感情は湧く。
身体は反応する。
そのすべてに
「私」という所有者はいない。
ただ、起きている。
その事実に気づいた瞬間、
私たちは初めて
・同調しなくていい
・コントロールしなくていい
・正しくあろうとしなくていい
という場所に立てる。
「自分」という錯覚が緩んだとき、
そこに残るのは
役割でも
評価でも
物語でもない。
生きているという、ただの現象だ。
そしてその現象は、
驚くほど自由で、
驚くほど自然で、
驚くほど静かだ。
自分を探すのをやめたとき、
初めて生命そのものに戻れる。

