生命は線形ではなく、非線形で複雑系

生命や健康を理解しようとするとき、
多くの人が無意識に前提にしているものがある。

それは、
「原因がわかれば、結果を操作できる」
という考え方。

  • 検査値が高い
    → 下げる
  • 症状がある
    → 取り除く
  • 異常が見つかる
    → 修正する

この発想は、
機械やシステムにはとても有効。

しかし、
生命は機械ではない。

生命とは、
非線形であり複雑系である。

非線形・複雑系とは何か?

それは、
小さな変化が大きな結果を生むこともあれば、
大きな介入がほとんど影響を与えないこともある世界。

部分を理解しても、
全体は説明できない世界。

同じ条件を与えても、
同じ結果が二度と再現されない世界。

それが、
生命が存在している次元。

ところが現代科学では、
この生命を線形モデルで扱おうとしてきた。

  • 原因と結果を一対一で結びつける
  • 要素を分解し、個別に修正する
  • 数値化できるものを「正」とする

この枠組みは、
急性期医療や外科的処置においては
非常に大きな力を発揮するが、
慢性症状、体調不良、心身の違和感、
「病名がつかない不調」に対しては、
途端に説明力を失う。

なぜなら、
非線形で複雑系に生命に対して
線形の問いを投げ続けているからに他ならない。

「なぜ治らないのか」
「何が足りないのか」
「どこが悪いのか」

こうした問いは、
生命を理解するための問いではなく、
生命を管理するための問いでしかない。

しかし、
管理しようとすればするほど、
生命は複雑さを増し、
予測不能になり、
言うことを聞かなくなる。

それは反抗ではない。

生命が、
本来の在り方に戻ろうとしているだけ。

非線形で複雑系としての生命は、
常に揺らいでいる。

安定と不安定の間を行き来し、
秩序と混沌の境界を漂い、
その都度、全体としてのバランスを
取り直し続けている。

健康とは、
その揺らぎが止まらないこと。

そして、
不調とは、
揺らぎを止めようとした結果、
硬直してしまった状態。

「正しくあろう」としすぎた身体。
「治そう」とされすぎた生命。
「説明されすぎた」存在。

それらは、
動けなくなっていく。

だから本当に必要なのは、
新しい方法や、
さらに精密な理論ではない。

必要なのは、
線形で理解しようとする態度を、
いったん脇に置くこと。

原因を探すのをやめる。
正解を当てにいかない。
結果を急がない。

揺らいでいることを、
問題にしない。

そのとき初めて、
生命は非線形複雑系として
本来の働きを取り戻し始める。

健康とは、
「正常値に収まること」ではなく、
揺らぎながら、戻ってこられる余白があること

生命は、
理解されたときではなく、
信頼されたときに動き出す。

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仁平 尚人カラダのよろず屋
2018年から「カラダのよろず屋」を名乗り活動。 人が本来持つポテンシャルを引き上げ、身心を繋ぎ、活動コンセプトである「カラダを整え、死ぬまで遊ぶ」ことのできる健康の提供に取り組んでいる。